1967

新東京国際空港設計計

1967年 新東京国際空港設計

首都圏に、新時代に対応できる新国際空港を整備

急激に増大する国際輸送、そして超音速旅客機も

道路や鉄道のインフラが次第に整えられる中、1960年代になると、日本における航空需要も急激に高まります。大阪国際空港開設に続き首都圏での空港機能の拡大が声高に叫ばれるようになり、年々増大する国際輸送、予想される超音速旅客機の就航などに対応するため、首都の空港として機能していた東京国際空港(羽田空港)の拡張等の検討が開始されました。
しかし、複数の長い滑走路の整備が必要とされるものの、羽田空港は手狭であったこと、また沖合への拡張を考えた場合、東京港の港湾計画との調整が極めて難しかったこと、アメリカ空軍管制区域などとの関係で、航空機の離着陸経路の設定が制約を受けることなどから、羽田空港の拡張だけでは需要に対応できないことが判明。新たな候補地を探す必要が出てきたのです。

用地買収問題などで、候補地は二転三転

そこで1962年から、東京国際空港の候補地の調査を新しく開始。様々な観点から検討が行われた結果、千葉県富里村が予定地として候補にあがりました。しかし用地買収等の問題から計画は進まず、いくつかの候補を再検討した後に、急きょ千葉県成田市三里塚地区に変更されるのです。この地域が国有地の宮内庁下総御料牧場や県有林であったため、また周辺も開拓農民の土地だったために、用地買収が比較的容易だと考えられたからです。
そして1966年、「新東京国際空港公団」が設立。翌年、パシフィックコンサルタンツは、そんな紆余曲折を経た新空港の設計を担当することになります。

航空新時代に相応しい設計を!

1963年に運輸省航空局が検討資料として発行していた『新東京国際空港』によると、新時代の空港に必要とされるのは、4,000 m滑走路2本、3,600 m滑走路1本、2,500 m滑走路2本。その他様々な機能が望まれていました。パシフィックコンサルタンツはそんな巨大空港を頭に描きつつ、航空新時代をにらんで空港設計を遂行したのでした。
反対派の妨害があったものの、新東京国際空港は予定より2カ月遅れで1978年5月に開港。その後2004年に民営化(特殊会社化)され、名称が「成田国際空港」に変更されました。現在では都心からのアクセスも格段と良くなり、世界に通じる玄関口として、パシフィックコンサルタンツの原案を活かしながら日々進化を続けています。

プラス1

その時、時代は!

新東京国際空港の開港は、スムースではなかった。当時の自由民主党の副総裁で"政界の実力者"と言われた川島正次郎氏の地元の千葉県富里村が建設予定地に内定したものの、用地買収などをめぐり地元自治体との調整が難航した。その後、成田市三里塚案に決定してからも、買収に伴う移転や騒音問題などで、空港建設反対派から大きな反発を受ける。結局、空港開港は1978年となるが、反対派の運動はその後も続いた。
ただ、こうした問題を乗り越えての開港および以降の運用は、関西国際空港や中部国際空港、ドイツのミュンヘン国際空港など、その後の内外の空港建設に貴重なノウハウを提供することになる。