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白石 多士良

不滅の名を残した土木建築学界の重鎮

白石多士良と白石宗城兄弟の伯父が、内閣総理大臣となった吉田茂。白石多士良の活躍は幅が広く、1921年に小松製作所の初代社長に就任し、1925年には永代橋の基礎工事に日本で初めて圧気潜函(ニューマティックケーソン)工法を用いている。また日本で最初のゴルフ教本を1931年(昭和6年)に執筆している。
多士良は、日本に半世紀近くも先行していた建築技術を学ぶため、米国に留学し、その間、多くの技術者、建築家、事業家との交友を得た。レーモンド氏とも、この頃に親交を得たものと思われる。あるいは、1921年頃にレーモンド氏が東京ゴルフ倶楽部に入会しているので、多士良との交友はゴルフを通じて日本で始まったという説もある。

白石 多士良が残した実績

火曜会相談所設立

戦後荒廃した国土を憂えて集まっていた多士良ら技術者のもとに、1948年1月、無二の親友レーモンド氏から1通の手紙が届きました。「私は日本に深い愛着があります。聞けば、日本はいま非常に困っているそうですが、私らの力でできることがあったら是非協力したいと思います。何をして欲しいかそちらの事情を知らせてください。」多士良らは次のような返事をレーモンド氏に送りました。「エンジニアとしていま日本のために、やらねばならぬことは二つあります。ひとつは、電力が極端に不足しているので電力を開発することであり、もう一つは石炭の増産です。」
1948年秋に来日したレーモンド氏に多士良らの只見川ダム開発構想を伝えたところ、大いに賛同を得、この企画の進展には権威ある米国人のコンサルティング・エンジニアによる調査と報告書が必要であるとの勧告でした。翌1949年6月にはレーモンド氏から、ウエスティングハウス・インターナショナル社のエリック・フロア氏が来日すると連絡がありました。
フロア氏の来日を前に、多士良らは1949年7月1日に、対外活動をするためのグループ組織名称を「火曜会相談所」と命名しました。この火曜会相談所は、丸ビルの白石基礎本社の424号室に設置され、後のパシフィックコンサルタンツ株式会社の設立母胎となった組織です。
レーモンド氏は1949年10月にフロア氏と共に来日し、11月上旬に平山復二郎、白石宗城、吹原弥生三、河野康雄とともに只見川現地調査に向かいます。

(『白石多士良略伝』白石俊多著 多士不動産刊より作成)

東京ゴルフ倶楽部朝霞コース建設

東京大学工学部卒業後、米国留学中に赤星四郎、六郎兄弟の薫陶を受け、トップアマチュアとなり、昭和初期の東西対抗などで活躍。1931年、赤星兄弟指導の技術論をまとめ、目黒書店から『正しいゴルフ』を出版。日本人の書いた、日本人のための最初のゴルフレッスン書であった。
さらに東京ゴルフ倶楽部理事として、駒沢コース(現在の駒沢オリンピック公園)から朝霞コースへの1932年倶楽部移転を主導した。朝霞コース設計はC・H・アリソン(広野、川奈ゴルフコース設計者。アリソンバンカーが有名)。クラブハウスはレーモンド設計。
※東京ゴルフ倶楽部朝霞コースは戦時中に陸軍予備士官学校用地として譲渡され、現存しない。倶楽部はその後1940年に狭山市に移転(大谷光明設計)し、現在に至る。2001年日本オープン開催。

白石 多士良 プロフィール

  1. 東京市神田駿河台で生まれる

  2. 東京帝国大学工学部土木工学科入学

  3. 鉄道院奉職、大分建設事務所勤務

  4. 鉄道院辞任、土木工事視察のためアメリカに渡航

  5. 小松製作所社長就任

  6. 震災復興局嘱託就任

  7. 圧気潜函(ニューマティックケーソン)工法導入

  8. 東京ゴルフ倶楽部朝霞コース開場

  9. 白石基礎工事株式会社設立、社長就任

  10. 火曜会相談所設立、只見川水力開発企画に参画

  11. パシフィック コンサルタンツ インコーポレーテッド設立

  12. 東京文京区原町自宅にて逝去(満66歳)

※『白石多士良略伝』白石俊多著多士不動産刊より作成


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