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白石 宗城

日本コンサルタントの国際的地位を確立

白石多士良の弟である白石宗城(以下「宗城」)は、1951年(昭和26年)に米国法人パシフィックコンサルタンツ・インコーポレーテッドの副社長に就き、1954年(昭和29年)に日本法人パシフィックコンサルタンツ株式会社の会長に就きました。以降、社長そして再び会長に就き、1979年(昭和54年)に89歳で亡くなるまで、通算28年の間、パシフィックコンサルタンツの代表を務めました。

白石 宗城が残した実績

平山複二郎との縁と二足のわらじ

宗城は、1889年(明治22年)12月4日、東京神田駿河台袋町14番地において、父白石直治、母菊子の次男として誕生しました。
1910年(明治43年)、東京帝国大学工科大学工学部に進学し、工学部電気工学科に籍を置き、研究と実験に取り組みました。卒業後は、内定していた日本窒素肥料株式会社(以下「日本窒素」)に入社する前に、兵役を1年志願によって務めることにしました。入営した中野電信隊では、兄多士良の無二の親友であった平山復二郎と起居をともにし、親交を深めました。平山との縁は、後の1954年(昭和29年)パシフィックコンサルタンツ設立時の会長・白石宗城、社長・平山復二郎につながっていきます。
1914年(大正3年)12月、兵役を終え、日本窒素に正式に採用となりました。1918年(大正7年)と1920年(大正9年)、電気化学研究の世界情勢を把握することを目的に、宗城は米国とドイツに留学しました。
帰国後、宗城は日本窒素の研究部長兼延岡工場次長となる傍ら、大規模工場候補地の物色を特命として受け、一大電気化学コンビナート建設に向けて、電源地帯と港湾の候補地調査のため、屋久島、只見川、黒部川、糸魚川、庄川流域などの調査を進めました。
それは後に、白石兄弟と平山らの「火曜会相談所」メンバーによる只見川の電源開発調査につながっていきました。
1941年(昭和16年)、宗城は日本窒素常務取締役に就任、さらに1944年(昭和19年)には専務取締役に就きました。
その後日本窒素は、1945年(昭和20年)12月に財閥解体の対象に指定され、活動が大きく制約を受け、宗城も1946年(昭和21年)2月の公職追放令の対象となりました。

パシフィックコンサルタンツの誕生

兄多士良の経営する白石基礎工事株式会社の本社がある丸ビル4階の424号室は、公職追放を受けた多士良の先輩や友人たちの溜り場になっており、集まった者たちは日本の将来について熱っぽく議論していました。そこに宗城も加わり、1946年(昭和21年)暮れに満州から引き揚げてきた平山復二郎も加わって、話題も具体的になってきました。
兄多士良と親交のあったレーモンド、レーモンドの呼びかけに応じたフロアらは、高知県の四万十川開発計画をはじめコンサルティング活動の基盤が次第に芽生え、その結果、協同して仕事をしようということになりました。
1951年(昭和26年)9月、エリック・フロアが社長、レーモンドと宗城が副社長となり、米国デラウェア州に本社を、丸ビルの白石基礎工事内に東京支店を置く米国法人パシフィックコンサルタンツ・インコーポレーテッド(P. C. Inc.)が設立されました。

1950年(昭和25年)10月、宗城は公職追放が解け、1951年(昭和26年)7月に新しく発足した新日本窒素肥料株式会社の社長に就任しました。P. C. Inc.が設立する2ヶ月前のことでした。これに伴い、宗城がP. C. Inc.の業務に専任することができなくなり、平山復二郎が主として運営にあたりました。
その後、米国法人P. C. Inc.は発展的に解消し、1954年(昭和29年)2月、日本法人パシフィックコンサルタンツ株式会社が設立され、宗城は、新日本窒素の社長に就いていたので会長に就任し、初代社長には平山復二郎氏が就任しました。
本店は、P. C. Inc.から引き続き、新宿西口の東富士ビルとし、スタート時の社員数は13名でした。

宗城は1958年(昭和33年)に新日本窒素の社長を退任したため、以降はパシフィックコンサルタンツの会長として経営に専念しました。
1962年(昭和37年)1月に社長の平山復二郎が亡くなったことにより、宗城は第2代社長に就任し、コンサルティング・エンジニアの「地位向上」と「海外展開」、そしてそのための「英語の修得」について繰り返し述べていました。

また、1965年(昭和40年)には建設コンサルタンツ協会の第2代会長に就任し、1976年(昭和51年)に退任するまで11年間務めました。この間、宗城は、会員のコンサルティング・エンジニアとしての業務理念の普及と海外活動の促進に力を尽くしました。

白石 宗城 プロフィール

  1. 東京神田駿河台で生まれる

  2. 東京帝国大学工科大学工学部に入学

  3. 兵役を終え、日本窒素に採用

  4. 米国に留学

  5. ドイツに留学

  6. 日本窒素常務取締役に就任

  7. 日本窒素専務取締役に就任

  8. 公職追放令の対象となる

  9. (昭和26年)新日本窒素肥料株式会社の社長に就任

  10. 米国法人パシフィックコンサルタンツ・インコーポレーテッド設立

  11. 日本法人パシフィックコンサルタンツ株式会社設立。会長に就任

  12. 新日本窒素の社長を退任

  13. パシフィックコンサルタンツ株式会社の社長に就任

  14. 建設コンサルタンツ協会 第2代会長に就任

  15. 建設コンサルタンツ協会 会長退任

  16. 脳梗塞により逝去(満89歳)


INDEX

 

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