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河野 康雄

日本コンサルタントの国際的地位を確立

1933年東大土木工学科卒、鉄道省に入省し、46年運輸省を退官。戦後はパシフィックコンサルタンツ社長、日本コンサルティング・エンジニヤ協会会長等を歴任。

「ピッチャーで四番」のワンマン学生

東大時代の河野と切り離せないのが野球。「ピッチャーで四番の河野」。当時の友人・知人が異口同音に言う言葉である。誰が決めるということなく、野球をやろうとすると「オレはピッチャーで四番バッターでなければやらない」と必ず言い出し、事実そうなってしまう。東大では当時年に1回、親睦のために学年対抗の草野球のリーグ戦が開かれていたが、代表チームのマウンドにはいつも河野がいた。堂々たる体躯から投げ下ろす剛速球は、かなりの威力があった。「昼休み、教室脇のキャッチボールでも速球の名投手だった」と、同級生で晩年まで河野のゴルフ仲間であった元建設事務次官・山本三郎は、河野を懐かしむ。
後日パシフィックコンサルタンツを率いたとき、「普通、会社のトップは船にたとえると操舵機だが、河野は操舵機とエンジンの両方だ」と舌をまかせた気性の激しさとバイタリティーは、実はこの頃からのもので、彼の"ワンマン"は筋金入りだったのだ。
(『コンサルタント列伝 河野康雄伝』 高橋素秋 社団法人建設コンサルタンツ協会 季刊誌「明日へのJCCA」より作成)

男を上げた新丹那のガキ大将

鉄道省に河野ありと、土木技術界の耳目を集めたのは、昭和16年、河野が熱海地方施設部丹那工団長を務めたときからである。弱冠32歳にして、数百人の部下を従えるリーダーとなった河野は、その辣腕ぶりで一躍注目される男となった。最初の仕事は、弾丸列車を通す新丹那トンネルの現場監督。弾丸列車というのは、戦時中の当時の国力を誇示する大東亜圏構想の鉄道分野を担うもので、東京から下関までをつなぐ物資や兵員輸送の大動脈となるものである。(中略)河野の指揮のもと、熱海からの東口600m、三島からの西口2,400mを掘り進んだところで、昭和19年1月、工事中断のやむなきに至ってしまった。河野自身、胸まで湧水につかりながら獅子奮迅の突貫作業であったが、戦況はもはやこの新丹那トンネルの完成すら待てないほど、逼迫の度を強めていたのである。精魂傾けた河野の無念さは、想像してもなお余りある。
ただ、この努力が今日の東海道新幹線の新丹那トンネルとして陽の目を見ることになったわけだが、それは後日の話。
もう一つ後日談になるが、この新丹那トンネルに挑んだ河野たち猛者の奮闘振りは、作家舟橋聖一によって小説化され、東宝によって映画化された。渡辺邦男監督による「男」という作品がそれで、河野役を当代の人気俳優 岡譲二が演じた。主演の岡は頻繁に河野を訪ね、トンネル男の生き様を学んで演技に生かしたという。
(『コンサルタント列伝 河野康雄伝』 高橋素秋 社団法人建設コンサルタンツ協会 季刊誌「明日へのJCCA」より作成)

河野 康雄が残した実績

国際社会への奉仕を基本理念に

河野が海外での活動を始めた第一歩は、昭和29年3月の渡米であった。創業間もないパシフィックコンサルタンツ常務取締役技師長の河野は、農林省の肝煎りで始動した、当時画期的な大型プロジェクト愛知用水事業計画に対して世界銀行からの融資を受けるべく、コンサルタントとしてその説明役を仰せつかったのである。
以後、国内業務と並行して、海外業務への精力的な取り組みが始まった。もともとPacific Consultants Inc.を設立した当初から、海外への意欲は燃えていた。「我々は技術を一生の職業としていく心構えでいるが、そのためには我々の技術が国際的にも通用するものでなくてはならない」。その技術をもって国際社会に奉仕するというのが、河野たちメンバーの基本理念であったからだ。(中略)
社団法人日本コンサルティング・エンジニヤ協会の設立と運営に傾けた熱意は、特に着目すべきものであろう。(中略)
日本コンサルティング・エンジニヤ協会(AJCE)は、昭和49年4月に設立をみた。同協会は昭和52年8月に社団法人として認可されるわけであるが、河野は設立当初から理事、会長としてわが国コンサルタントの国際的地位の確立に腐心した。まず一つの成果があった。日本コンサルティング・エンジニヤ協会が、それまで懸案であった国際コンサルティング・エンジニヤ連盟(FIDIC)への加盟を果たしたのである。昭和49年10月。河野69歳の秋であった。世界で最も権威のあるFIDICに加盟したことにより、日本のコンサルタントは名実共に世界の仲間入りを認められたことになる。後年、河野は各国委員の推薦と賛同を受け、日本人として初めてFIDIC常設委員会の委員長に就任した。

(『コンサルタント列伝 河野康雄伝』 高橋素秋 社団法人建設コンサルタンツ協会 季刊誌「明日へのJCCA」より作成)

同志的連帯感

パシフィックコンサルタンツには、パシフィックコンサルタンツとしての個性がある。特長がある。家風がある。他人から見れば、すぐに感ずるものがある筈である。(中略)
我々の扱うプロジェクトはチームワークによって、同志的連帯感のもとに、技術解析が進められてゆくのは当然である。(中略)一言に、同志的結合或いは、同志的連帯を基本とすると言うが、いったいどうしてそのような結合が得られるか?連帯感を育てるものは何か?と反問が起こる。これに応えるものは、指導者である。強い、優れた、自分の信念でleadする指導者がなくては、同志も、結合も、連帯感もあったものではない。(中略)
指導者は指導者でなくてはならない。中途半端な態度や指示はナンセンスである。むしろ同志的結合には有害とも言える。また指導者は、下部に対し人間的愛情をもった交流をしなくてはならない。不断の、計画的な示唆を与えなくてはならない。没個性的な指導は魅力がない。強い独自の個性を以って、叱咤激励を惜しんではならない。絶えず率先して、積極的、精力的に、討議の機会を与え、同志の信念を確かめなくてはならない。指導者は、ともかく確信を持って先頭を進んでいくところ、信頼感が生まれてくるのである。そして同志的結合の中心となり得るのである。

(『翌檜の心 第三集』 河野康雄著 パシフィックコンサルタンツ株式会社発行)

河野 康雄 プロフィール

  1. 兵庫県高砂市で生まれる

  2. 第五高等学校理科甲類卒

  3. 東京帝国大学工学部土木工学科卒

  4. 鉄道省入省。熱海地方施設部丹那工団長

  5. 弾丸列車の新丹那トンネル建設

  6. 松代地下大本営建設隊長にて終戦を迎える

  7. 運輸省を退職。三幸建設(株)取締役

  8. 白石基礎工事(株)技師

  9. パシフィックコンサルタンツ(株)創業

  10. パシフィックコンサルタンツ株式会社社長就任

  11. 藍綬褒章受章

  12. 日本コンサルティング・エンジニヤ協会(AJCE)が国際コンサルティング・エンジニヤ連盟(FIDIC)へ加盟

  13. 日本コンサルティング・エンジニヤ協会(AJCE)会長就任

  14. 勳三等瑞宝章受章

  15. 満81歳で逝去

※『翌檜の心 第三集』 河野康雄著パシフィックコンサルタンツ株式会社発行より作成


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