国際社会への奉仕を基本理念に
河野が海外での活動を始めた第一歩は、昭和29年3月の渡米であった。創業間もないパシフィックコンサルタンツ常務取締役技師長の河野は、農林省の肝煎りで始動した、当時画期的な大型プロジェクト愛知用水事業計画に対して世界銀行からの融資を受けるべく、コンサルタントとしてその説明役を仰せつかったのである。
以後、国内業務と並行して、海外業務への精力的な取り組みが始まった。もともとPacific Consultants Inc.を設立した当初から、海外への意欲は燃えていた。「我々は技術を一生の職業としていく心構えでいるが、そのためには我々の技術が国際的にも通用するものでなくてはならない」。その技術をもって国際社会に奉仕するというのが、河野たちメンバーの基本理念であったからだ。(中略)
社団法人日本コンサルティング・エンジニヤ協会の設立と運営に傾けた熱意は、特に着目すべきものであろう。(中略)
日本コンサルティング・エンジニヤ協会(AJCE)は、昭和49年4月に設立をみた。同協会は昭和52年8月に社団法人として認可されるわけであるが、河野は設立当初から理事、会長としてわが国コンサルタントの国際的地位の確立に腐心した。まず一つの成果があった。日本コンサルティング・エンジニヤ協会が、それまで懸案であった国際コンサルティング・エンジニヤ連盟(FIDIC)への加盟を果たしたのである。昭和49年10月。河野69歳の秋であった。世界で最も権威のあるFIDICに加盟したことにより、日本のコンサルタントは名実共に世界の仲間入りを認められたことになる。後年、河野は各国委員の推薦と賛同を受け、日本人として初めてFIDIC常設委員会の委員長に就任した。
(『コンサルタント列伝 河野康雄伝』 高橋素秋 社団法人建設コンサルタンツ協会 季刊誌「明日へのJCCA」より作成)


