只見川ダム現地調査
戦後のある日、かつての親友のひとり白石多士良が、日本における水力発電の必要から、ダム調査のために来日できるかを尋ねる手紙をよこした。1947年、彼は来日の希望を直接、総司令官ダグラス・マッカーサー元帥に手紙で打診したのである。マッカーサーからは「レーモンドの日本における建築の業績は歴史的なものとして評価する」という意味の返信が届き、ようやく来日が許可された。
(三沢浩『アントニン・レーモンドの建築』 鹿島出版会刊)
白石と私は数回にわたり、吉田茂と彼の私室で会い、その基本計画の方策と意義を検討した。
1949年10月末にエリック・フロアーと一緒に東京に来た。最初にすることはマッカーサー元帥を訪ね、奥只見行きについて説明し、奥只見がどんな状態にあるか、ダム建設の可能性があるか、そしてフロアーの調査に基づく科学的報告書を作ることについて彼の意見を求めることであった。(中略)元帥は開襟シャツを着け、火をつけない空のパイプを右手に持っていた。彼は腰掛けるようにすすめ、われわれの意見を辛抱強く聞いた。時々彼は、問題について意見をはさんだが、それから判断してもわれわれの直面している工学問題に精通していることがわかった。彼はこの仕事に賛成し、われわれを援助するように指示した。
(三沢浩『アントニン・レーモンドの建築』 鹿島出版会刊)

戦後のある日、かつての親友のひとり白石多士良が、日本における水力発電の必要から、ダム調査のために来日できるかを尋ねる手紙をよこした。1947年、彼は来日の希望を直接、総司令官ダグラス・マッカーサー元帥に手紙で打診したのである。マッカーサーからは「レーモンドの日本における建築の業績は歴史的なものとして評価する」という意味の返信が届き、ようやく来日が許可された。
(三沢浩『アントニン・レーモンドの建築』 鹿島出版会刊)
白石と私は数回にわたり、吉田茂と彼の私室で会い、その基本計画の方策と意義を検討した。
1949年10月末にエリック・フロアーと一緒に東京に来た。最初にすることはマッカーサー元帥を訪ね、奥只見行きについて説明し、奥只見がどんな状態にあるか、ダム建設の可能性があるか、そしてフロアーの調査に基づく科学的報告書を作ることについて彼の意見を求めることであった。(中略)元帥は開襟シャツを着け、火をつけない空のパイプを右手に持っていた。彼は腰掛けるようにすすめ、われわれの意見を辛抱強く聞いた。時々彼は、問題について意見をはさんだが、それから判断してもわれわれの直面している工学問題に精通していることがわかった。彼はこの仕事に賛成し、われわれを援助するように指示した。
(三沢浩『アントニン・レーモンドの建築』 鹿島出版会刊)


