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事業内容/実績関越自動車道・関越トンネルプロジェクト

関越自動車道・関越トンネルプロジェクト
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業務期間 1970年6月(基本計画策定) 1977年3月~1982年2月(本坑貫通)

日本海新時代を拓いた日本最長トンネル

日本海新時代を拓いた日本最長トンネル

「長いトンネルをぬけると雪国であった」で始まる小説「雪国」。この場合のトンネルは清水トンネルですが、昭和60年に暫定開業を迎えた関越トンネルはまさにこの例にあてはまり、トンネルに入る前と後では窓の外の世界が一変します。急峻な谷川岳を貫く日本最長の道路トンネルは、東西の物流、人の往来を飛躍的に延ばしました。安全性を徹底追求し、世界屈指の設備を誇る関越トンネルの完成は雪国に暮らす人々の生活を大きく変化させ、日本海新時代の幕を開いたのです。
関越トンネルの必要性について担当者はこう振り返ります。「国道17号線、昔でいう三国街道が上を走っていますが、そこを利用すると雪や悪路により往来に非常に時間がかかっていました。そこで、谷川岳を真っ直ぐに抜けることによって、東西日本の往来を安全にスピードアップするため計画されたのが関越トンネルです。これは、当時の目玉となるプロジェクトでした」

日本一のトンネル受注、その理由は

山がちな地形によって磨かれた日本のトンネル技術、そのレベルは世界に抜きんでたものですが、日本を代表する難しいトンネルを当社が手がけた背景には確かな実績の裏付けがありました。「当社は昔から数多くの長大トンネルを手がけており、日本の長大道路トンネルのベスト10には殆ど絡んでいるといっていいくらいです。関越トンネルに関しては、本体も換気システムもともに当社で行っています。ただ、関わったのは対面交通の状態までなのですが、4車線を前提とした対面の設計だったので、ほぼ全体を手がけたといっていいと思います」

環境、技術...高いハードルへの挑戦

環境、技術...高いハードルへの挑戦
水上側トンネル入り口

関越トンネルで特徴的なのは、その長さばかりではありません。特殊な環境下での換気システムをどうするかは、中でも大きな問題で、実現には最新の技術と危険を伴う作業が求められました。「国立公園の中でしたから空気の出し入れをする場所が限られていました。そこで採用したのが立坑と電気集塵機による『縦流換気方式』です。谷川立坑と万太郎立坑の2箇所でしか新鮮な空気を取込めないため、トンネル内で電気集塵機を使いました。電気集塵機というのは、トンネルの中の排気ガスから煤煙をとって空気をきれいにし、またトンネルに戻すというものですが、この電気集塵機方式の実用のめどが立ったことでプロジェクトが完遂した部分も大きいです。一般に、延長の長いトンネルを換気する場合、換気所などは2箇所ではすまないのですが、電気集塵機システムができたからこそ立坑が少なくても延長約11kmの換気が可能となりました。これは大きな技術で、当社でもかなり勉強したシステムでした。また、立坑を掘るのも一筋縄ではいきませんでした。谷川筋には人が歩くだけの道しかないので、主な資材はヘリコプターで現場まで運んだのです。この立坑は上から掘り抜くのではなく、地下から掘り上げました。立坑の下から掘り上がっていく『アリマッククライマ工法』です。普通なら地上から立坑を掘っていき地上にズリ(土砂)を運び上げればいいのですが、関越では道路がなくて運び出せませんので土をすべて下に落とすためにこの方式を採ったわけです。人が機械に乗って縦に上がって上向きで掘る、これは大変に危ない仕事です。上から石が落ちるのを屋根で避けながら削岩し、火薬を込めたら下がってきてドーンと発破をかけ、また上がっていく。これが一番危険でした」また、いざというときの安全性の確保も大きなテーマのひとつでした。「関越トンネルには、災害時に備えて避難坑が本坑に平行して通っています。補助坑を掘るひとつの目的として、地質の先が読めず、調査もしづらい状況があったときにパイロットとして先にトンネルを掘り進め、まず地質の確認をするということがあります。それが、将来的に車道の中で事故があった場合の避難道路となるという、ふたつの役割があるわけです。これも、まだ長大トンネルがそれほどない時期にしては新しいやり方だと思います。実はこの時期にトンネル火災事故(※)が起きていまして、煙に巻かれた犠牲者が一番多く出ていたのが火点からだいたい300mくらいのところでした。その事実を教訓として、1期線トンネル(現在の下り線)は対面通行での暫定供用であったためほぼ350m間隔で補助坑への逃げ道を作ってあります。4車線で一方通行のトンネルが2本になった場合は、隣のトンネルに逃げ込めるように避難連絡坑を設けました。いざというとき隣のトンネルに出られることを知っておいて、通行時に注意して見て欲しいです。」また、実際の掘削法も常識を越えたものでした。「全断面掘削工法を用いて掘ったのですが、全断面でこれだけのトンネルを掘ったというのは当時とすれば画期的だったと思います。巨大な削岩機でジャンボといいますが、当時はこういう大きな機械が脚光を浴びた時期でした。効率面で採った方法なのでかなり速くできたのではないかと思っています」

※トンネル火災事故:1973年1月6日、北陸本線の北陸トンネルにて発生した死者30名を出した電車車両火災事故

どしゃ降りの湧水、危険な山はねとの闘い

急峻な谷川岳を相手にした大工事にあって、困難や危険は避けがたいものでした。「なんといっても湧水がすごかったです。1分間に切羽付近で最大18tも出て常に長靴の高さまで水がある状態で仕事をしなければなりませんでした。さらに上からも、バシャバシャどしゃ降りのように水が落ちてきて、補助坑の掘削時はとにかく水との闘いが一番の苦労でした。また、岩も一緒に落ちてくる場合があるので、そういう意味でも気が抜けませんでした。断層破砕帯で水脈にあたると粘土化した部分に水がたまっていて、そこを掘ると水と一緒に軟らかい土砂がドッと、最悪天井から崩落するということもあるのです。また、山が深いため『山はね現象』もありました。それまで山の圧力がかかっていたのが、発破をかけたことによってそこの部分の圧力が解放され、岩が跳ねてくる、それを『山はね』といいます。硬い山の深いところでそういう現象が起きるのです。切羽にロックボルトを打設したり、掘った直後は切羽から離れ、はねるのを待ってから再び切羽に入るなど掘削作業中の事故防止対策をとりました。谷川岳といえば一番深いところで山頂から約1,000mの地下を掘っているのですから、地圧も大きいわけです」

所在地 群馬県利根郡水上町阿能川~新潟県南魚沼郡湯沢町土樽
延長 10,926m
設計工期 1970年6月(基本計画策定)
1977年3月~1982年2月(本坑貫通)
総事業費 約630億円
資料提供 関越トンネル工事誌 1986年11月、
日本道路公団 東京第二建設局

家族と分かち合った達成感

関越トンネルとの関わりを振り返って感じることは、やはり大きな達成感。「自分の人生の中でなかなか当たれないような、大きなプロジェクトの設計や現場の仕事に従事できたことはラッキーだったと思います。人生で最大級の仕事でした。坑口の外側に工事に携わった人の名前が載った銘板があるのですが、開通したとき、自分の名前を見せるために子どもを連れて行きました。私が現地に赴任した頃に生まれた子で、一緒に行ったときは10歳くらいになっていました。それから、妻と結婚25周年の記念に谷川岳に登って換気搭を見てきました。自分のやって来た仕事のひとつの大きな成果を、山上から『どの辺をどう掘ったっけ』と見たのですが、改めてよくこんな山の中を掘ったなと感じました」

最新の技術以上に先人の経験に学びたい

関越トンネル透視図
関越トンネル透視図

これからトンネル事業を志す人へ伝えたいこととして、当時、部長だった加茂はこう結びました。「トンネルを掘ることはお医者さんと一緒だと思うのです。なぜならトンネルは掘ってみないとわからない、この山、この自然をどのように分析、診断して、いかに安全に掘るかという点で、医者だって外から診るだけではわからないですから。要は、いかに過去の人の経験に耳を傾け、自分なりに見えるところでの判断をし、的確な判断を下せるかというところが医者に近いかなと思います。『自分はこうだ!』などというおごった考えを持つとまずいのですね。最新の技術等も必要だが、過去の経験を勉強しておいた方が失敗しなくて済むのでは、と思うのです。自然を相手にするすべての仕事ではそういうことを大事にした方がいい気がします」