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2018.05.17

創業の頃<1951年~1954年>

パシフィックコンサルタンツの誕生

1951年に創業したパシフィックコンサルタンツ株式会社は日本の建設コンサルタントの草分けとして、60年以上にわたり、わが国の建設コンサルタントの成長を牽引してきました。ここでは、そんな当社の歩みを振り返り、数回に分けてご紹介したいと思います。
少々長くなってしまいますが、建設コンサルタントについて少しでも興味のある方はぜひご一読ください。先人たちがいかにして社会と調和し、信頼を勝ち取ってきたかを知ることで、これからの建設コンサルタントに求められている役割が見えてくるはずです。

米国法人 Pacific Consultants Inc.の誕生

1951年(昭和26年)9月4日、パシフィックコンサルタンツ株式会社の前身であるパシフィックコンサルタンツ・インコーポレーテッド(Pacific Consultants Inc.)(以下「P.C. Inc.」)が日米の共同出資により設立されました。資本金は3000ドル、白石宗城(1889~1979)とエリック・フロア(Erik Floor)(1891~1958)、それにアントニン・レーモンド(Antonin Raymond)(1888~1976)の平等出資による米国法人でした。
前身の「火曜會相談所」の主要メンバーである白石宗城の兄、白石多士良(1887~1954)は、当時、白石基礎工事株式会社(現:オリエンタル白石株式会社)の創業者として社長に就いていたため、P.C. Inc.への参加を見送りました。

前列左から白石多士良、エリック・フロア、A.レーモンド、後列左端が平山復二郎、右端が白石宗城

本店は、アメリカのデラウェア州ケント郡ドウバー市サウスストリート129番地に、東京支店は「火曜會相談所」が置かれた白石基礎工事株式会社の社長室である丸の内ビルヂング424区(千代田区丸ノ内二丁目2番地)に、東京支社は千代田区大手町二丁目4番地高架線ビルに置かれました。創業時に集まったメンバーは、白石宗城、平山復二郎(1888~1962)、河野康雄(1909~1991)ら、18名でした。この年、E.フロア60歳、A.レーモンド63歳、白石多士良64歳、白石宗城62歳、平山復二郎63歳、河野康雄42歳でした。
P.C. Inc.の社長にはエリック・フロア、副社長に日本側白石宗城、アメリカ側アントニン・レーモンド、技師長に河野康雄がそれぞれ就いたとあります。

わが国の建設コンサルタント

創業から数年の間に、P.C. Inc.の技術者はアメリカ流のコンサルティング・エンジニアの基礎と実務を習得し、その後、1954年(昭和29年)に日本法人パシフィックコンサルタンツ株式会社になってからも脈々と継承してきました。この時期に誕生したわが国のほかの建設コンサルタントとはまったく異なる生い立ちです。

例えば、日本工営株式会社は1946年(昭和21年)に外地から引き上げてきた技術者によって国土復興を目的に「建設業として」創業し、のちの1954年(昭和29年)に建設コンサルタント登録をしました。
建設技術研究所は、1945年(昭和20年)に設立された建設省(現:国土交通省)の調査、研究業務を受託する財団法人建設技術研究所を前身とし、株式会社になったのは1963年(昭和38年)でした。
社団法人復興建設技術協会は、外地から引き上げてきた建設関係の技術者の就職斡旋を主な目的に、1946年(昭和21年)に設立されました。のちに各地方支部が株式会社化し、各社は「復建」の名を引き継ぎました。

創業当時の業務

フロアは、アメリカからエンジニアを東京のオフィスに送り込みました。東京支社長のルビンスに加え、ヒル、ゼマネックといった面々で、いずれも技術はもとより、人格的にも優れた技術者でした。ルビンスは、P.C. Inc.の創業前から来日し、創業の準備から関わっていました。フロアがこの3人を選び、P.C. Inc.に派遣したことが、パシフィックコンサルタンツに対する大きな功績となりました。

彼らは、横須賀にあるアメリカ海軍基地のエンジニアリング・デパートメントに出向き、仕事を受注してきました。手始めの仕事は、海軍横須賀軍港内の埠頭計画、アメリカ極東空軍18ヶ所の飛行場拡張計画等でした。

創業当初からアメリカ人コンサルタントの指導を受けながら、米軍施設の業務を直接経験することにより、コンサルティング・エンジニアという職業を叩き込まれ実務を身につけていきました。

当時、技師長であった河野康雄が次のように記しています。
「注文者との業務範囲の協議、設計に必要な基礎資料の検討、技術費及び報酬の契約、予備研究に基づく注文者への勧告及び報告書の提出、詳細設計・工事費見積書・工事仕様書等の請負入札に必要な資料の作成、工事実施に伴う技術管理の提供等、一貫したコンサルタント業務の要領を学びました。この日常業務の間に、資料の整理方法、粗より細部へ何段階かに分けて進める技術研究の態度、作図及び設計の取運び方、報告書の記述要領、又経理・事務の整理方法等の些細なことながら私共には、目新しく、学ぶべきことが多々ありました。これにもまして、私共はコンサルタントの心構え、なかんずく『自分の行った技術業務についての責任をどこまでも負う』という信念が、コンサルタントの職業的信条であることを、つくづくと知りました。又政治的立場や営利的立場とは、およそ隔離された純粋技術的立場にあるべきということを知りました。」
甲乙(発注者と受注者)対等の立場で契約に基づいて仕事をする、という今日では当たり前の欧米流のビジネスマインドも同時に培われていきました。

P.C. Inc.の事務所

創業時の事務所、高架線ビル。東京・神田間の高架下だった。

1951年(昭和26年)9月、創業時の事務所は、千代田区大手町二丁目4番地高架線ビルとありますが、ビルではなく東京・神田間の国鉄(現:JR)の高架下でした。当時、社団法人復興建設技術協会が使用していた事務所の一部を間借りしました。

レーモンド設計事務所(提供:レーモンド設計事務所)

しかし、高架下の事務所も4ヶ月後の年が明けた1952年(昭和27年)1月には、麻布笄(こうがい)町2(現:港区西麻布三丁目15-23)に新築されたレーモンド事務所内に移転しました。レーモンドは事務所の提供のみならず、レーモンド設計事務所が受注した米軍キャンプの住宅設計といった建築設計業務に付帯する排水設計や測量調査といった業務をP.C. Inc.に回しました。
さらに、その5ヶ月後の1952年(昭和27年)6月には、事務所をレーモンド事務所から、新宿区角筈2丁目73番地2(現:新宿区西新宿1-7-2)にある東富士ビル(現:スバルビル)に移転しました。創業から1年の間に2度、事務所を移転することになりました。

パシフィックコンサルタンツと技術士会

P.C. Inc.創業のこの時期、平山復二郎は、技術士法や日本技術士協会設立に力を尽くしました。終戦直後のある日、白石多士良、白石宗城、平山復二郎らは、当時の総理である吉田茂から「欧米の技術先進国では永い歴史のあるコンサルティングシステムが、日本にないことが敗戦の大きな原因である。優れた民間の科学技術者の見識があれば、無謀にも戦争は起こらなかっただろうし、平和への終結もできたはずである。今後の技術界の大きな課題は、日本に一日も早く、権威のある民間技術者によるコンサルティング・エンジニア制度を確立することである。」と助言を受けました。

また、戦後の欧米からの技術導入の過程で、政府および産業界はコンサルティング・エンジニアの存在と地位を認識するようになりました。さらに、1950年(昭和25年)、当時の経済安定本部企業局技術課長であった田中宏他1名によるアメリカのコンサルティング・エンジニアの実状に関する報告を通して、コンサルティング・エンジニア制度を日本で確立することの重要性が理解されるようになってきました。

平山復二郎 パシフィックコンサルタンツ株式会社初代社長

平山らの奔走により、1951年(昭和26年)6月14日に日本技術士会の設立総会を開催し、10月8日、社団法人の認可を取得しました。P.C. Inc.が設立された年です。
さらに、平山らの手で技術士法が草案され、1954年(昭和29年)3月の国会に法案が上程されましたが、所管を巡る省庁間の調整がつかず継続審議となり、やがて廃案となってしまいました。技術士法が科学技術庁(現:文部科学省)の所管で制定されたのは3年後の1957年(昭和32年)5月でした。その後、平山は1959年(昭和34年)~1962年(昭和37年)までの間、日本技術士会の第3代会長を務めました。

P.C. Inc.の東京支社長として来日した R.E.ルビンスは、その後、フロアの事務所(Erik Floor & Associates Inc.)(EFA)の副社長に就き、引き続きフロアとともに愛知用水事業に携わりました。のちにルビンスは、こういった実績や平山らの推薦を受け、日本技術士会の初の外国人会員となりました。

パシフィックコンサルタンツの歴史は、まさにわが国における技術士制度の歴史と重なっています。黎明期のコンサルティング・エンジニア業務の積み重ねとあわせて、平山らの活動を通して、コンサルティング・エンジニアの理念と精神がパシフィックコンサルタンツに根付き、育まれていきました。

提案して仕事を創る

一方、P.C. Inc.の前身である「火曜會相談所」は、戦後復興に向けて、自分たちで「只見川電力開発事業」を提案して国を動かし、アメリカから専門家を招請し現地調査を行い、報告書を作成しました。いわゆる「プロポーザル」です。結果として、同事業は「優先度が低い」という理由で見送られましたが、後年1954年(昭和29年)から1968年(昭和43年)にかけ、電源開発株式会社によって実現に至りました。
このように、国民が必要とする新しいプロジェクトを民間の立場で提案するという「火曜會相談所」の精神は、P.C. Inc.創業後も当然のように引き継がれました。

1952年(昭和27年)6月、高知県と渡川(現:四万十川)電源開発に関するコンサルタント業務を契約しました。
さらに、1953年(昭和28年)4月には、農林省と愛知用水事業の「技術支援業務」を契約しました。同業務の契約にあたり、農林省はGHQ(連合国軍総司令部)から世界銀行の借款事業として進めるためにコンサルタントの活用を勧告され、只見川の調査で実績のあったフロアを代表とするP.C. Incの推薦を受けました。P.C. Inc.の業務は、現地調査、測量、地質水理調査、ダム地点選定計画等の予備設計等の一連の業務でしたが、最終的なダムの計画、報告書の取りまとめは、EFAが担当しました。1955年(昭和30年)、アメリカでの日本政府と世銀借款の予備交渉に、技師長河野康雄が農林省の担当課長に同行しています。
一方、当時、神戸市から受注した「六甲トンネル」に関する業務は、経済調査に始まり、測量、路線設計、予備設計、実施設計と続いていきました。まさに、総合コンサルタントとしての一連の業務でした。
メンバーそれぞれが、戦前や戦中の人脈を通して、国や地方自治体が必要とするプロジェクトを提案し、仕事に繋げていきました。

米国法人から日本法人へ

P.C. Inc. 創立から3年目を迎え、米軍関係業務の減少やアメリカ人技術者の報酬と採算性の問題が顕在化してきました。
1954年(昭和29年)2月4日、P.C. Inc.の業務と社名を引き継ぎ、日本人によるパシフィックコンサルタンツ株式会社(PCKK)が設立されました。資本金30万円、本店は新宿西口の東富士ビル、会長に白石宗城、初代社長に平山復二郎、技師長に河野康雄をはじめとする役員7人、従業員11人のスタートでした。

参考文献(順不同)

  1. 1. 「パシフィックコンサルタンツ25年史」、1976年(昭和51年)
  2. 2. 「未来を生む歴史-パシフィックコンサルタンツ50年史」、2002年(平成14年)
  3. 3. 「日本技術士会創立50周年記念誌」、2001年(平成13年)
  4. 4. 「自伝 アントニン・レーモンド」、A・レーモンド/三沢浩訳、1970年
  5. 5. 「白石多士良略伝」、白石俊多、1994年(平成6年)
  6. 6. 「平山復二郎君の思い出」、1962年(昭和37年)
  7. 7. 「白石宗城」、白石宗城、1978年(昭和53年)
  8. 8. 「回顧録」、白石俊多、1992年(平成4年)

(原稿:パシフィックコンサルタンツグループ株式会社 廣實正人)

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