2018.10.29
平山 復二郎
パシフィックコンサルタンツ株式会社初代社長・平山復二郎
目次
府立一中時代~一高・東大時代
鉄道院・留学・復興院時代
満州時代
終戦~帰国後
コンサルティング・エンジニア
技術士法
社外活動と晩年
パシフィックコンサルタンツの歩みをご紹介するこのコーナー。第3回となる今回は、パシフィックコンサルタンツの創業期において重要な役割を果たし、パシフィックコンサルタンツ株式会社の初代社長に就いた平山復二郎氏をご紹介します。
平山復二郎 PCKK 初代社長
<はじめに>
平山復二郎(ひらやま ふくじろう)は、パシフィックコンサルタンツの母胎である「火曜會相談所」の主要メンバーで、1951年(昭和26年)9月に設立された米国法人パシフィックコンサルタンツ・インコーポレーテッド(P.C.inc.)では副社長を、1954年(昭和29年)2月に日本法人となったパシフィックコンサルタンツ株式会社(PCKK)においては初代社長をつとめました。
府立一中時代~一高・東大時代
<府立一中時代>
平山は1888年(明治21年)東京市本郷に生まれ、2歳のときに麹町区(現千代田区)元園町に、7歳の頃に同区一番町に転居しました。
1901年(明治34年)入学試験に合格し東京府立第一中学校に入学しました。当時の中学は5年制でしたので、13歳から18歳までの間を過ごしました。三年生のときに牛込区仲之町(現新宿区)に転居しました。府立一中は日比谷高校の前身で、当時は日比谷公園の北側にあり、転居後は牛込から麹町を通って通学していました。
平山復二郎の名前の読みは「ふくじろう」が正です。文献によっては「またじろう」とわざわざルビを振っているものもあります。中学の同窓によると、「先生が平山の名を呼ぶとき『またじろう』と呼んだが、平山自身が訂正を申し出た様子はなかった」とのことです。以来「またじろう」と呼ばれ、大人になっても「またさん」と呼ばれることが定着してしまったようです。2004年に発刊された「土木人物事典」や土木学会ホームページの「歴代会長」には、「平山復二郎(ひらやま・ふくじろう)」と読みが記されています。
<一高・東大時代>
平山は、府立第一中学校を卒業後、1906年(明治39年)第一高等学校(一高)に進みました。一高に入ると直ぐに野球部に入り、3年間三塁手で、三年生の時には主将をつとめました。
平山は第一高校を卒業し、1909年(明治42年)東京帝国大学工学部土木工学科に入学しました。21歳のときです。 br>同窓の白石多士良と釘宮磐とは、府立一中から一高、東京帝大土木、鉄道院と同じ道を歩んだ生涯の友でした。白石多士良は鉄道省退職後、民間人として活動し、釘宮は平山が鉄道省を退職するまで30年近くを、終始、建設畑の親しい同僚として、鉄道技術者の生活を送りました。戦後、「火曜會相談所」に平山、白石多士良とともに釘宮も参加しました。
また、後にわが国の鉄筋コンクリートの権威となる吉田徳次郎も同窓でした。平山と吉田は府立一中の一年生のときに同級生でしたが、吉田は父の都合で金沢に転校し、東京帝大で6年ぶりに再会しました。平山は「私生活だけでなく、公的生活でも自分が担当した工事のコンクリートに関する問題については、万事、吉田に相談し指導を受けた」と残しています。平山にとって吉田も生涯の友人の一人でした。
鉄道院・留学・復興院時代
1912年(明治45年)7月、平山は鉄道院に入省し、建設部技術課勤務となりましたが、同年12月に休職し、1年志願兵として陸軍中野電信隊に入隊しました。同期の釘宮も同じ中野電信隊で軍隊生活をともにしました。
また、白石多士良の弟である白石宗城とも、約6ヶ月中野電信隊で起居をともにし親交を深めました。後に1954年(昭和29年)PCKK創立時の会長・白石宗城、社長・平山復二郎につながっていきます。
兵役を終えて鉄道院に復帰すると、房総線建設事務所勤務を経て、1917年(大正6年)大分建設事務所に転勤しました。ここでは日豊線などの新線建設を担当しました。房総線建設事務所と大分建設事務所の6年間、平山は工事の現場監督だけでなく、日本の請負制度を目の当たりに経験しました。現場の経験を充分に積んだ平山は、1919年(大正8年)建設局工事課勤務の命を受け東京に戻ってきました。工事課長は、平山が尊敬する東大土木科の先輩である太田圓三がつとめていました。太田と平山は、外国製の建設機械を積極的に購入し、工事の機械化を推進しました。
1920年(大正9年)平山は米国留学を命じられました。滞米中はニューヨークに本拠を置いて工事現場の見学を主とし、アメリカ中を歩き回りイリノイ大学ではコンクリート研究中の親友吉田徳次郎と会って大いに論じ合いました。平山がアメリカで勉強した主なものはコンクリート工法と工事の機械化および請負工事などでした。1年をアメリカで過ごしヨーロッパに渡り、1922年(大正11年)に帰国しました。
欧米の留学を終えて帰国した平山は、元の勤務場所である鉄道省建設局工事課に戻りました。翌年の1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災は東京を中心に壊滅的な被害をもたらしました。時の内務大臣・後藤新平は、帝都は復旧すべきものではなく、この機会に大都市計画を新たに計画し新東京を興すべきとし、自ら帝都復興院の総裁に就き、かつて鉄道院総裁をしていたことから、鉄道省から優秀な技術者を集めました。その結果、選ばれたのは、太田圓三、平山復二郎、田中豊でした。
平山は同院(局)の道路課長および土木部工務課長として、3年間、東京の道路計画、橋梁工事、区画整理、用地買収に携わりました。平山の復興局在任中、上司の太田が亡くなるという不幸に遭遇しました。平山は、太田の遺族の生計費と子息の養育費を率先して募り、その一部で太田圓三の記念碑を建立するとともに、残金を信託銀行に預け、子息が大学を卒業するまで毎月、育英金が届くように手配しました。
太田圓三記念碑(神田橋橋詰)
その後、1927年(昭和2年)に平山は鉄道省建設局工事課に再び戻り、2年間工事課で制度や規程類の整備に尽力した後、1929年(昭和4年)岡山建設事務所長に就きました。
1931年(昭和6年)当時、世界的に難工事の一つとして有名であった丹那トンネル工事を所管する熱海建設事務所長に転じました。丹那トンネルは全長約7,760m で、1918年(大正7年)に着工し、平山が着任したときは約7,160m が掘削されていましたので、600mを残すばかりでした。大断層と大量の湧水が大きな障害になっていましたが、平山が赴任後1年半の1933年(昭和8年)6月、水抜坑が貫通しました。このことは本坑の貫通を意味する重大な出来事でした。丹那トンネルの難工事については、小説「闇を裂く道」吉村昭著に詳しく描かれています。
翌1934年(昭和9年)平山は建設局工事課長として再び本省に戻りました。この頃、平山は只見川の渓谷を縫って走る只見線の建設にあたり、技術発展につながる新しい構造形式を採り入れようと、アーチや連続トラス橋梁にケーブル架設する工法などを積極的に採用しました。
さらに2年後の1936年(昭和11年)、仙台鉄道局長に赴任し鉄道の運営に携わりました。そして在任1年で建設局長として本省に戻ってきた後、1年後の1938年(昭和13年)、平山は鉄道省を退職しました。
満州時代
鉄道省を退職すると同時に、平山は南満州鉄道株式会社(満鉄)の理事に就任し、満州の奉天市に赴任しました。当時、陸軍は満州国全域にわたって鉄道網を張り巡らす計画を立てており、満鉄は満州国から鉄道の経営および新線建設の委託を受けていました。軍部が独走する満州において、新線建設の企画を進めましたが、実を結ばないうちに4年の任期が到来しました。
満鉄理事のあと、1942年(昭和17年)満州国の国策会社である満州電気化学工業株式会社の理事長に就任しました。これに伴い、奉天から同社本社のある吉林市に転居しました。
平山は、この満州電気化学株式会社の理事長の任期満了を待たずに、満州電業株式会社の理事長に招請されました。同社も満州電気化学株式会社と同様に満州国の国策会社で、満州国全域の電力を扱う大会社でした。平山が同社の本社がある新京市(現長安)に移ったのは1945年(昭和20年)6月でした。そして、1ヶ月余りしたのちに、8月の終戦を迎えることになりました。
終戦~帰国後
<終戦>
終戦になると、平山は新京市の日本人会会長に推されて就任し、1945年(昭和20年)11月から翌年5月まで半年余り、ソ連と中国共産党の支配下にあった25万人の居留日本人の代表として活動しました。この間、平山は2回の投獄を経験しています。
同地にいた満州重工業開発総裁であった高碕達之助は、平山を自分の家に同宿させ、日本人をできるだけ平穏に引揚げさせるように二人で力を尽くしました。その頃、二人は「日本に帰ったら何をするか」という会話の中で、電力開発の必要を共有し、どこを開発するかという結論が只見川、十津川、北山水系でした。平山は鉄道省建設局工事課長時代、只見線の建設に携わっていたので、只見川に土地勘がありました。数年後に平山は白石多士良、宗城らとともに只見川開発の調査を実現しました。
1946年(昭和21年)9月に平山は満州を出発し博多港に到着、10月に新宿から空襲で焼き出され吉祥寺に移転していた家族と再会しました。そのときの切実な感慨と喜びを表現した平山の歌が残っています。
船降りて指図受けつつふと思ふ日本の土を踏みつつありと
畳より机より皿よりナイフよりよろこびは涌く君家にありて
<帰国後>
1946年(昭和21年)10月に帰国した後、平山は土木技術をもって日本の復興に貢献することを使命と考え、府立一中、一高、東京帝大、鉄道院と同じ道を歩んできた白石多士良を訪ねました。この時、「平山の頭の中には『次はコンサルタントをやる』ということが既にあった」と新京でともに苦労した高碕達之助は記しています。
白石基礎工業株式会社の社長であった白石多士良は、1946年(昭和21年)11月、平山を同社の相談役に迎えました。同社が入居していた丸ビルの部屋には白石多士良、白石宗城に加え、内海清温、吹原弥生三らも出入りしており、そこに平山が加わり戦後復興の議論が具体化していきました。日本の復興のベースになるのは「技術」しかないというのが共通の認識でした。
中でも、戦前より欧米諸国の土木技術界に精通し、数多くのコンサルティング・エンジニアの活躍の実績を目の当たりに見聞してきた白石多士良、白石宗城、平山らは切実な思いを抱いていたことでしょう。
1948年(昭和23年)10月、白石多士良と戦前から親交のあったアントニン・レーモンドが再び来日し、白石兄弟の叔父で当時の首相であった吉田茂との面談を通して、翌年11月の只見川電源開発調査を実現させました。同調査には、平山、白石兄弟、吹原、レーモンドおよび米国から同行してきたエリック・フロアらが参加しました。
翌年の1949年(昭和24年)7月、白石多士良、白石宗城、平山らを中心に吹原、釘宮、内海ら平山の古くからの友人も加わり「火曜會相談所」を立ち上げました。
只見川調査
コンサルティング・エンジニア
1950年(昭和25年)になると、米国から各種調査団が来日するようになりました。その中に有力な「コンサルティング・エンジニア」が団員として加わっていたこともあり、政府においても、わが国の工業化の推進にあたりコンサルティング・エンジニアの存在が認識されるようになりました。
同年夏、経済安定本部企業局技術課長田中宏と産業政策課長松村敬一がアメリカのコンサルティング・エンジニア制度の実状を調査するため渡米し、帰国後、わが国における職業としての技術士の必要性について報告書「コンサルティング・エンジニア」をとりまとめました。
同年12月、経済安定本部産業局で各界の関係者を招いて技術士に関する懇談会を開く際、平山が同懇談会に加わりました。翌1951年(昭和26年)6月に社団法人日本技術士会が設立され、初代会長に大野巌が就任し、平山は初代理事の一人に就きました。
1951年(昭和26年)9月4日、PCKKの前身であるパシフィックコンサルタンツ・インコーポレーテッド(Pacific Consultants Inc.)が日米の共同出資により設立されました。平山は同社の副社長に就きました。
平山は「日本のコンサルタンツは、国際社会に通用するものであり、技術先進国との技術交流が行われなくては、技術内容においても、技術制度的にも進歩しない」という信念のもとに、海外業務にも自ら力を注ぐと同時に人材の養成にもつとめました。
1954年(昭和29年)2月4日、Pacific Consultants Inc. の業務と社名を引継ぎ、日本法人パシフィックコンサルタンツ株式会社が設立され、初代社長に平山が就任しました。
技術士法
技術士法案は1954年(昭和29年)に国会に上程されましたが、所管省庁の縄張り争いにより廃案となりました。
1956年(昭和31年)5月に科学技術庁が設置され、翌年3月、井上匡四郎第2代技術士会会長と平山が衆議院特別委員会に参考人として呼ばれ、技術士法の必要性を力説しました。1957年(昭和32年)5月、ようやく技術士法が成立しました。平山は、この法律に従い第1回技術士試験を受験しました。平山が70歳のときでした。
1956年(昭和31年)平山は土木学会の会長に就任しました。
1959年(昭和34年)3月、日本技術士会の社団法人許可証が、科学技術庁長官の高碕達之助から発行されました。終戦から14年経過し、新京で同宿し語り合った高碕達之助と平山は、不思議な縁で再会しました。ところが8日後に井上匡四郎会長が逝去、後任の第3代日本技術士会会長に平山が就任することになりました。
社外活動と晩年
パシフィックコンサルタンツ株式会社の社長であった平山は、営団地下鉄から丸ノ内線の国会議事堂前駅付近のトンネル施工法建設委員会、東西線の茅場町・東陽町間構造検討の委員会や東京都地下鉄建設委員会など多くの委員会の委員長を引き受けました。委員会の議論が沸騰し緊迫した空気になっても、平山はユーモアも交えてまとめ上げ、和気あいあいのうちに委員会を終わらせました。
1961年(昭和36年)8月、平山は外遊前に健康診断を受けたところ、十二指腸潰瘍が見つかり9月に手術し、その後、湯河原にて転地療養をしました。
手術後の容態が小康の時期、平山は見舞った友人に対し、「私の一生は実によい友達に恵まれたことが何よりの幸福であって、実に衷心感謝に堪えぬところである。」と漏らしています。
その後、平山の病状は悪化し、11月に再び国立東京第一病院に入院しました。
入院中の病院から平山は、パシフィックコンサルタンツ株式会社創立10周年記念式典に宛ててメッセージを届けました。病床から最後の言葉になりました。
懸命の治療が施されましたが、それから50日余り後の1962年(昭和37年)1月19日に平山は亡くなりました。享年73でした。
平山復二郎の著書一覧
- 「工事と請負」 1928年(昭和3年)日本工人倶楽部出版部
- 「丹那トンネルの話」1933年(昭和8年)熱海建設事務所
- 「トンネルの話」(訳書)1939年(昭和14年)岩波書店
- 「トンネル」1943年(昭和18年)岩波書店
- 「技術と哲学」1950年(昭和25年)理工図書
- 「技術と生活」1952年(昭和27年)交通協力会
- 「地底に基礎を掘る」1955年(昭和30年)パシフィックコンサルタンツ㈱
- 「技術」1958年(昭和33年)、交通協力会
- 「土木建設に生きて」1961年(昭和36年)山海堂
参考文献(順不同)
- 1. 「平山復二郎君の思い出」1962年(昭和37年)石崎書店
- 2. 「パシフィックコンサルタンツ25年史」1976年(昭和51年)
- 3. 「未来を生む歴史―パシフィックコンサルタンツ50年史」2002年(平成14年)
- 4. 「日本技術士会三十年史」1981年(昭和56年)
- 5. 「土木人物事典」藤井肇男、2004年(平成16年)アテネ書房
- 6. 「闇を裂く道」吉村昭、1990年(平成2年)文春文庫
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