1965

大阪国際空港設計

大阪国際空港設計

万国博覧会開催に向けて、大阪国際空港を強化せよ!

レジ時代の流れにあわせて拡張整備された歴史

大阪市の北西およそ13kmに位置する大阪国際空港は、3,000m級を含む長短2本の並行滑走路を有する国内拠点空港です。前身は、1939年にオープンした大阪第二飛行場。当時の面積は約16万坪でした。1940年に日本陸軍に接収され、敗戦後はアメリカ軍のものに。1958年に返還され、国営の「大阪空港」として再開港しました。また翌年には第1種空港として国際路線を開設し、「大阪国際空港」という名前に変わりました。1960年代に入ると大阪市近郊の市街地の拡大にともない、空港周辺の宅地化が顕著に。利用者数も増加して、1964年からはジェット機も乗り入れました。その年には日本人の海外渡航が自由化され、離着陸数の増加や航空機の大型化が進むのです。

アジア初のイベントに、国際空港としての使命を

そんな折も折、1965年に、1970年大阪での万国博覧会の開催が決定されます。史上初めてアジアで開催される国際博覧会です。それに合わせて、世界からの訪問者をしっかりと迎えるために、航空整備等を使命とした第三港湾建設局大阪空港工事事務所が発足しました。
パシフィックコンサルタンツは、1965年、その大阪国際空港の設計を託されます。予測される輸送量に応えられるか、安全は確保できるか、周囲の交通網と連携してスムースに目的地に向かえるか、日本の玄関としての存在感を示すことができるか――時代のニーズにさらに応えられる空港への変身に、国中の期待を受けてプロジェクトは進んだのです。
1970年の万国博覧会を契機に、大阪国際空港は国際空港としての全盛時代を迎えます。

経済大国に成長した日本の象徴として

「人類の進歩と調和」をテーマに掲げた大阪万国博覧会は、大成功を収めます。万国博覧会史上初めての黒字を記録。総入場者数はおよそ6,500万人で、2010年に中国で開かれた上海万国博覧会の7,278万人に抜かれるまで、40年間に渡って入場者数No.1の地位をまもってきました。
この成功には、もちろん大阪国際空港の存在を欠かすことはできません。大阪での万国博覧会の開催が決まった1960年代後半から1970年の開催にかけて、大阪国際空港の航空旅客の伸びは、なんと年150%。戦後、高度経済成長を成し遂げアメリカに次ぐ経済大国となった日本を象徴する空港の一つとして、国内外から多くの注目を集めたのでした。

プラス1

その時、時代は!

「大阪国際空港」へ改称した当初はアジア路線が中心だったが、1960年代の後半から北米、欧州への国際線が開かれた。1964年にはジェット旅客機が就航し、ボーイング707やダグラスDC-8、コンベア880などの大型ジェット機が相次いで姿を見せた。1994年の関西国際空港の開港によって大阪国際空港の国際線の発着は終了するが、それまでここを拠点に多くの人やモノが世界と行き来し、関西圏全体の発展に大きく貢献した。
なお、「大阪国際空港」は「伊丹空港」という通称も持つ。それは大阪第二飛行場がアメリカ軍に接収された際に、兵庫県伊丹市の名をとって「イタミ・エアベース」と命名されたから。そこから一般に「伊丹空港」や「伊丹飛行場」と呼ばれるようになり、その呼び方が今でも残っている。