1961

東海道新幹線地区・橋梁設計

1961年 東海道新幹線地区・橋梁設計

世界の鉄道技術の常識を打ち破るエクスプレス

ビジネスにレジャーに、時速200kmが力を発揮

在来線でおよそ6時間かかっていた「東京―大阪」間。東海道新幹線は、輸送力が限界となっていた東海道本線の混雑解消、および時間短縮を実現するために計画された"夢の超特急"です。実現に向けて調査チームが設置されたのが1956年。道路の整備と並行して鉄道網を充実させるという目的の他に、200kmを超える時速を実現して世界の鉄道技術の常識を打ち破るという狙いもあったのです。1958年に建設計画が認証され、1959年に着工。折しも東京での開催が決まったオリンピックに間に合わせるために、急ピッチで建設が進められました。
日本の三大都市である東京と大阪、名古屋を、ビジネスマンが仕事で行き来するケースは当時から少なくありませんでした。また京都、横浜なども含め、関東から関西へ、関西から関東へと家族がレジャーで足を伸ばすこともしばしば。そんなシーンで"日帰りでも充分な滞在時間が確保できるビジネス"、"目的地でゆっくりできる旅行"、そして"快適な移動時間"を実現する輸送手段として東海道新幹線に大きな期待がかけられました。

未知の世界に目を向け、自信と信頼の設計を

そんな東海道新幹線プロジェクトにおいて、1961年、パシフィックコンサルタンツは、日向町/鴨宮地区の設計、および富士川橋梁設計に関わることになります。世界初、日本初の高速鉄道は、従来線の狭軌とは異なる標準軌を別線で建設。それゆえに未知の部分も多く、プロジェクトでは沿線全エリアの地形や気候等を詳細に考えあわせ、綿密に設計を行う必要がありました。
開業は、東京オリンピック直前の1964年10月1日。開業当初の営業最高速度は時速200kmで、「東京―新大阪」間を「ひかり」が4時間で、「こだま」が5時間で結び、当時のビジネス、レジャーに大きな変化を与えたのです。

新たな新幹線、続々。受け継がれる偉大な技術

現在、東海道新幹線は1日に300本前後が運行され、「東京―新大阪」間を最速2時間25分で結びます。利用者数はおよそ40万人を数え、開業当時の人気は衰えることを知りません。「ひかり」と「こだま」に続き、「のぞみ」もデビュー。この路線で培われた技術とノウハウは後に他の路線の新幹線に受け継がれ、多くの子孫を誕生させました。そんな日本が世界に誇る高速鉄道には、パシフィックコンサルタンツの技術が息づいているのです。

プラス1

その時、時代は!

開業初日の、上り初列車ひかり2号でのこと。ビユッフェ車両にあった速度計のまわりに乗客が集まったために、運転士が大サービス。当時はかなりおおらかだったのか、直線区間を時速210kmで運転した。そのために新横浜駅を予定よりも5分早く通過。終点には定刻通りの到着が義務付けられていたために、東京駅に近づくにつれて減速し、今の品川駅を過ぎたあたりでは山手線に抜かれてしまうほどの速度だったという。
なお、着工時には「新幹線」という呼び名はなく、第二の東海道線という意味で「東海道新線」と呼ばれていた。「新幹線」という名称は、戦前に考えられていた"弾丸列車計画"の中の列車の呼称にちなんでいる。「夢の超特急」は、これまで6時間かかっていた距離を4時間で走る凄さに、自然と湧き上がった呼び名である。