1959-1961

首都高速1・3号線上下部構造設計

首都高速1・3号線上下部構造設計

急務!「東京に、車が自由に走れる専用道路を!」

そこまで迫っていた、大規模な交通マヒの現実

日本道路公団の設立や国土開発縦貫自動車道建設法の制定など車社会への対応が着々と進められていた1950年代中頃、東京では自動車の増加とともに各地で渋滞が頻発し、「このまま放置すれば、やがて大規模な交通マヒになる」と懸念されるようになっていました。湧き上がるモータリゼーションのうねりの中、新たな課題が次々と現れてきたのです。
そこで計画されたのが、東京都心に自動車専用道路を通す首都高速道路計画でした。この構想は戦前からあったものの、真剣に検討されたのはこの時が初めて。1959年に政府で計画が議決され、それを具現化するための首都高速道路公団が誕生しました。

5年後にオリンピック開催。どうなる首都圏交通網!

東京に快適にスピードが出せる自動車専用道路を――そんな夢を乗せてスタートしたプロジェクトに、パシフィックコンサルタンツはまず首都高速1号線の上下部構造設計に、そして3号線の上下部構造設計に力を発揮することになります。
ところが計画の議決から半年もたたない1960年に、"1964年に東京でオリンピックが開催される"ことが決定。早急に交通網を整備しないと世紀の大会運営に支障をきたすという状況に追い込まれます。そこで「8路線+環状線」で計画していた中から1号線など特に重要な存在となる路線を「オリンピック関連道路」と位置づけ、優先的に工事を進めることを決定。パシフィックコンサルタンツもそれにあわせて構造設計に着手しました。

新技術とアイデアで工期短縮。イベントを大成功に

開幕までの4年間で30km以上もの道路を建設するのは、通常の手順では不可能です。そこでプロジェクトでは、用地買収の時間が必要ない"既存の道路や川などの上に道路を作る"という方法を採りました。また羽田トンネルなどは、従来よりも大幅に工期短縮が可能な沈埋函工法を採用。アイデアを駆使し、最先端技術を活用しながら急ピッチで、しかも確実に工事が進められていったのです。
首都高速1号線の4.5kmが開通したのは1962年。オリンピック関連道路全線31.3kmが開通したのは、開会式の9日前のことでした。状況に応じた設計が首都高速道路を見事に現実のものにし、オリンピックの成功により「日本も完全に先進国の仲間入りをした」ことを世界に知らしめる結果となったのです。

プラス1

その時、時代は!

当時、日本の玄関だった羽田空港。オリンピック関連道路は羽田と都心、選手村と各種競技場を快適に結んだ。大会期間中、1日平均7万5,000台の車がこの道路を利用した。首都高速道路を走ると「高いところを曲がりくねりながら通っている」という印象が強いが、それはこの道路が用地買収の必要のない場所を縫うように走っているから。当時のアメリカ連邦道路局長だったレックス・ウィットンは開通したオリンピック関連道路を見て、「大都市の上を走るこのように複雑な曲線道路は、我々では決して作れない。素晴らしい!」とコメントした。
ちなみに開通当時の通行料金は、普通車で50円。およそ日本蕎麦一杯の値段だ。なお、予定されていた首都高速道路全線が完成したのは、オリンピックから3年後のことである。