1958

名神高速道路高架橋比較設計

名神高速道路高架橋比較設計

幕があがる日本のハイウエー時代。未来への大きな架け橋を

日本初の高速道路、「東京―神戸」間の大動脈発進

アメリカで始まったモータリゼーションの波が日本に押し寄せたのは、あるシンクタンクが「東京―神戸」間の高速道路建設を政府に勧告した1958年のことでした。この勧告は、政府の"中央山岳地帯案"に対抗して海岸沿いに高速道路を通すというもの。土地買収費用が安いこと、人口密集エリアを通した方が便利なこと、南アルプスを貫通するのが技術的に難しいことなどを考えての案でした。
検討を重ねた結果、政府はこの案を受け入れ、海岸沿いの案を採ることになります。ただ、「東京―名古屋」間のルート決定をめぐっての調整が遅れ、名古屋以西、つまり名神高速道路から建設が進められることになりました。

さまざまな問題への挑戦

この名神高速道路の高架橋比較設計を行ったのが、パシフィックコンサルタンツ。1958年のことでした。
高架橋は用地を立体的に利用でき、トンネル構造よりも安価な工事費で建設が可能です。ただ近隣住民にとっては景観、日照、振動・騒音、大気汚染などの問題も発生することから、様々な観点からの比較検討が必要となります。そのため、経済性、構造特性、施工性、維持・管理性、環境・景観面等の点で最良の構造形式を決定するための比較設計が、パシフィックコンサルタンツに託されたのです。日本で初めての高速道路、加えて海岸高架路線案へと変更されたルート。プロジェクトに対する沸き上がるような使命感はとても大きなものでした。そして1958年、その設計に基づき「小牧―西宮」間の191kmが着工。1963年には「栗東―尼崎」間の開通を見るにいたったのです。

高架橋利用の道路づくりがここからスタート

ハイウエー時代の幕開けの象徴・名神高速道路は、日本初の高速道路であるということの他に、もう1つの"初"を冠しています。それは、日本で初めて「総価単価契約方式」が採用された土木工事だったということ。工種ごとの単価表を添付した競争入札の第一号です。着工以来、日本のモータリゼーションの波は東京オリンピック開催の1964年向けて加速され、現代に繋がっています。高架橋は"速さ"を求める場合に活用され、鉄道で多く用いられてきました。道路としての利用は高速道路の建設が盛んになってから。高速道路に高架橋の可能性を持ち込んだパシフィックコンサルタンツの業績は、交通手段の新たな扉を開いたものとして高く評価されています。

プラス1

その時、時代は!

東京・名古屋・大阪を結ぶ日本の大動脈の1つ、名神高速道路。「栗東―尼崎」間は、日本初の都市間高速道路として注目された。開通当時はこの道路自体が観光名所となり、"路肩に車を停めて記念撮影をしたり"、"景色を見ながら弁当を広げたり"する人がいたという、現在では信じられないような話も語り継がれている。
また、車の性能が連続した高速走行に耐え切れず、オーバーヒートを起こすケースも少なくなかった。そんな状況の中、トヨタ自動車が名車コロナを擁して「名古屋―西宮」間の10万km耐久テストを実施。58日間で276往復を走行した。また、高速ハイウエー時代に対応するために、当時の国鉄の高速専用バス車両開発時には、時速100kmでの20万km走行がスペックとして要求された。