1956

丸ノ内線調査設計

1956年 丸ノ内線調査設計

通勤の足となる新路線の、主要区間で駆使された技術と知識

定刻輸送が限界に。地下プロジェクトが始動

経済白書の「もはや戦後ではない」という言葉に象徴されるように、時代が大きく動いた1956年。「改正道路整備特別措置法」や「首都圏整備法」、「工業用水法」等の産業基盤整備をにらんだ法律が制定・公布され、「日本道路公団」や「森林開発公団」等が設立されました。
産業、経済等の発展により、急激に人の流れが活発化したのも1956年の特徴。当時の通勤手段といえば都電と国鉄が主流でしたが、安全で確実な大量輸送という新たなインフラの整備が望まれ始めていました。車の需要が大幅に増え、特に都電に関しては渋滞や事故が度々発生し、定刻輸送に限界が見え始めていたのです。
そんな地上の様相を受けて、地下では新宿と池袋の2つのターミナル駅を結ぶ「丸ノ内線」の開通が現実味を帯びていました。1942年に着工したものの中断されていた工事が再開されたのが1951年。以降、全線開通に向けて急ピッチで事業が進められます。

「霞ヶ関―赤坂見附」間、その最適工法は?

そんな丸ノ内線をめぐる事業で、1956年、パシフィックコンサルタンツは「霞ヶ関―赤坂見附」間を担当することになります。帝都高速度交通営団からの依頼により、丸ノ内線の主要区間の調査設計・土質調査を任されたのです。
この路線は、ほぼすべての区間が開削工法によって建設されています。しかし「霞ヶ関―赤坂見附」間の約230mはシールド工法で掘削を実施。それは日本の地下鉄としては初めての試みでした。新技術導入の理由は、霞ヶ関駅付近のトンネルを地下15mの深い位置で通す必要があり、当時の開削工法ではその実現が困難だったため、調査設計・土質調査を経て、シールド工法こそが最適な技術だと判断されたからでした。そうして、駅ホーム部では"半円形のアーチを持つ半円形ルーフシールドトンネル"が、駅間では"円形のシールドトンネル"が実現したのです。

1分50秒間隔という、高密度路線への礎

それから3年後の1959年3月15日には霞ヶ関―新宿間の5.8kmが開通し、ようやく丸ノ内線全線の開業を見るにいたりました。今ではターミナル駅から中央省庁やその関連施設を結び、朝の通勤時には1分50秒間隔で電車が到着するという高密度運転路線に成長した丸ノ内線。パシフィックコンサルタンツが提案した調査メニューや技術は、丸ノ内線建設の礎の1つであると自負しています。

プラス1

日本の道路事情の遅れを指摘した「ワトキンス・レポート」が出された1956年、輸送に関する意識は急激に高まった。そんな状況で進められた丸ノ内線プロジェクトは、内務省が告示した東京都市計画高速度交通機関路線網のうちの1つである。「霞ヶ関―赤坂見附」間では、俗に露天掘りと呼ばれる開削工法に代わって、1939年着工の関門海底トンネル(完成は1958年)で成功を収めたシールド工法を採用し注目を集めた。ちなみに「丸ノ内線」という名前は、東京駅付近の地名が"丸ノ内"だったことに由来する。
余談だが、全線が開通した3年後の1962年に放映された映画『キングコング対ゴジラ』では、丸ノ内線の車両が後楽園付近でキングコングにつかまれるというシーンがあり、この地下鉄が首都圏のランドマーク的存在であったことが伺える。