パシフィックコンサルタンツを創った人々

パシフィックコンサルタンツ発展の礎となった先人達をご紹介。

平山 復二郎

平山 復二郎(Hirayama fukujiro)

日本に必要な技術士制度の実現に尽力

1912年東大土木卒(白石多士良は同期生)、鉄道院に入管し37年建設局長を退官。戦後はピーエスコンクリート、パシフィックコンサルタンツ社長、日本技術士会会長等を歴任。

一高時代の名三塁手

彼は中学では野球をやっていない。それが三塁を引き受け、練習を積むや、見る見る上達した。三年ではキャプテンで依然三塁手。彼の全身全霊的なプレー振りは敵方にまで好感を持たせ、一高に平山ありとうたわれて、球界屈指の存在となった。
一高野球の練習の根幹をなすものはその基礎訓練である。端的にいうならきわめて短距離のキャッチ・ボールである。四間位の距離で全力で投げあう。これは、実に味もソッ気もない唯つらいだけの練習なのである。投げ合ってるうちに距離がだんだんちゞまる。息はつまるし、目はくらむ。瞬時たりとも球から目をはなし気合をはずすと怪我をする。球の素性を直感し、その勢いをこなしてとらないと痛い。寒中と雖も汗ビッショリである。平山はこの練習でかつて悄気たり、愚痴をこぼしたりしたことはない。正直に忠実に少しも手をぬかずゴマかさずに練習した。
(●『平山復二郎君の思い出』 から君島一郎文、平山復二郎記念刊行会より作成)

親爺のあれこれ

われわれ若い技術者が、丹念に設計図を仕上げて、親爺に見てもらいに行くと、実に熱心に目を通し、こまごまと指導して下さる。又いろんな意見を素直に吐き、若いエンジニアーに、好んでディスカスして下さる。これが楽しみで、われわれは親爺の室に勇んで出向くのであるが、一つ悩みがあった。それは、親爺の煙草と赤鉛筆である。親爺は仕上げた図面を前にして、無頓着に連続喫煙をする。煙草の灰が図面の上に遠慮会釈無く落ちる。時には図面に焼け焦げの孔があく。技師達は、折角仕上げた図面にみすみす焦げ孔があくことはたまらない。そこで親爺の癖を知った技師達は、煙草の灰が落ちかかると、息をためて待ち構え、灰が図上に落ちるや否や、息を吹いて灰を吹き飛ばす。その灰が対面している親爺の方に飛ぶ。こんなことが繰り返されながら、一方で、親爺との楽しい議論が活発に行われるのである。
また議論に熱が入ってくると、親爺はよく赤鉛筆を取り出して、図面に無頓着に印をつける癖があった。これもまた技師連中には有難くないことで、赤鉛筆の痕跡をきれいに図面から抹消することは、ひとかたならず苦労をする。下手にすると、図面が破れたり、他の書き入れた線や文字が一緒に消えてしまう。それで、親爺に図面を見てもらうときは、鉛筆にキャップをかぶせて、図面の傍に置き、被害防止に工夫をしたものだ。この無頓着な癖は、三十年もたった晩年においても、コンサルタンツの設計室で度々見受けられ、私は最後まで、この癖の被害者であったが、同時に若い時代の思い出を呼び起こして、又例の癖がと...微笑まれるのである。
(●『翌檜の心』 河野康雄著 パシフィックコンサルタンツ株式会社発行)

平山復二郎が残した実績

技術士制度の確立

技術士制度は「火曜会相談所」を組織し、欧米諸国の土木技術界に精通していた白石多士良と宗城の兄弟や平山復二郎らが、戦後の技術者のあり方について、欧米式のコンサルティング業、コンサルティングエンジニア制度の導入が不可欠であろうとの結論から導き出されたとされる。
(●ウィキペディア 「建設コンサルタント」の項目より引用/ウィキペディアの執筆者,2010,「建設コンサルタント」『ウィキペディア日本語版』,(2011年6月15日取得,http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88&oldid=33722734).)

技術士たらんとするものの資格であるが、その業務が、医師や弁護士などと同様、依頼者との信用、信頼関係で成り立つのであるから、業務を果たすための、自己の専門的な技術については、充分な智識と経験を持つのは、もちろん、技術者としての人格にも、欠けるところがあってはならない。(中略)技術者としての専門技術につき、豊富な実際の経験に裏付けられた、専門智識の所有者でなければならない。
技術士法が技術者間に、どの程度理解されているか知らないが、(中略)職業上の業務独占の特典は、何もないのである。要するに資格法でありながら取締法ではなく、名称独占による助成法にすぎないのである。
技術士への依頼は、技術士の技術的な専門智能に対する信頼が、根本であるから、技術士の選択を報酬額などの競争入札によるのは、およそ不合理である。どこまでも信頼する技術士とのネゴシエーション(協議)によらなければならない。早い話が、計画や設計のいい悪いは、技術者の数ではなく、技術者の質で決まるのである。(中略)常時大きな土木工事をやっている官公署や大会社などの技術陣容からは、当然、質の高い専門的な技術者が、育成されよう。そして、技術士制度が発達すれば、こういう技術者は、よし定年その他の理由で退職しても、技術を放棄せず技術士に転じて、技術に精進することになる。だから社会には常に現職にある技術者よりは、より質の高い技術者が技術士として存在する結果になる。
(●『随筆 土木建設に生きて』平山復二郎著 山海堂発行)

技術士制度の確立

丹那トンネル(延長8km、総工期16年、総工費約二千五百万円)

一体地中の工事で、相手は何だと一口に言えば、「水」と「土」の連合軍だということになります。(中略)「土」が崩れやすい土砂等になると、それに水が加勢したら、とても始末におえません。何とかしてこの水を追い払わねばなりません。
丹那トンネルでは、湧水に散々苦労した挙句、「水抜坑」を掘るということをやり出しました。(中略)有効だった水抜坑、一体どのくらい全体で掘ったかと言いますと、延長で、熱海口が二万尺弱、三島口が二万八千尺余りです。(中略)トンネルの延長が約二万五千七百尺ですから、倍近く掘ったことになります。
こんなに水抜坑を沢山掘って、一体トンネルから、どの位水をしぼったかと言いますと、大ざっぱに計算して、約二百億個というべらぼうな数字が出ました。これは工事着手から、貫通して地下水の水位がトンネルの盤迄さがる期間につき計算したのですが、まあ箱根芦ノ湖程度の湖を三つ位ほしたことになりましょう。
(●『昭和八年十二月 丹那トンネルの話』 鉄道省熱海建設事務所刊)

こういう大衆の生活に役立つ公共的な大構造物は、いずれは名を伝うべくもない多くの人間労働の結晶である。その運命はどうあろうとも、こういう物には「誰が造ったか解らないが素晴らしい」という無名の礼讃をささげたい。
(●『随筆 土木建設に生きて』平山復二郎著 山海堂発行)

丹那トンネル(延長8km、総工期16年、総工費約二千五百万円)

平山復二郎 プロフィール

  • 東京市本郷区で生まれる

  • 東京帝国大学工学部土木工学科入学

  • 鉄道院奉職、建設部技術課勤務

  • 鉄道省より米国留学(研究事項 隧道工事)

  • 鉄道省熱海建設事務所長

  • 社団法人相模カンツリー倶楽部理事就任

  • 鉄道省建設局長

  • パシフィック・コンサルタンツ・インコーポレーテッド(米国法人)副社長就任

  • ピーエス・コンクリート株式会社社長就任

  • パシフィックコンサルタンツ株式会社社長就任

  • 社団法人土木学会会長就任

  • 技術士法成立

  • 社団法人日本技術士会会長就任

  • 胃がんのため逝去(満74歳)

※●『平山復二郎君の思い出』
平山復二郎記念刊行会より作成