A.レーモンドが残した実績

只見川ダム現地調査

戦後のある日、かつての親友のひとり白石多士良が、日本における水力発電の必要から、ダム調査のために来日できるかを尋ねる手紙をよこした。1947年、彼は来日の希望を直接、総司令官ダグラス・マッカーサー元帥に手紙で打診したしたのである。マッカーサーからは「レーモンドの日本における建築の業績は歴史的なものとして評価する」という意味の返信が届き、ようやく来日が許可された。
(●三沢浩『アントニン・レーモンドの建築』 鹿島出版会刊)

白石と私は数回にわたり、吉田茂と彼の私室で会い、その基本計画の方策と意義を検討した。
1949年10月末にエリック・フロアーと一緒に東京に来た。最初にすることはマッカーサー元帥を訪ね、奥只見行きについて説明し、奥只見がどんな状態にあるか、ダム建設の可能性があるか、そしてフロアーの調査に基づく科学的報告書を作ることについて彼の意見を求めることであった。(中略)元帥は開襟シャツを着け、火をつけない空のパイプを右手に持っていた。彼は腰掛けるようにすすめ、われわれの意見を辛抱強く聞いた。時々彼は、問題について意見をはさんだが、それから判断してもわれわれの直面している工学問題に精通していることがわかった。彼はこの仕事に賛成し、われわれを援助するように指示した。
(●三沢浩『アントニン・レーモンドの建築』 鹿島出版会刊)

只見川ダム現地調査

11月の雪模様の日、エリック・フロア、レーモンド、白石宗城、河野康雄等の一行は新潟県から入り、今の只見川のダムサイトまで行きました。(中略)交通事情も悪いときであるし、その足で山路の長旅は無理だというので、駕籠を作り、フロアを乗せてかついだものです。
(●『パシフィック コンサルタンツ25年史』 パシフィック コンサルタンツ株式会社刊)

われわれは山人たちにかつがれて目的地に至ったのである。丸太と椅子を使って肩かごのようなものを作り、その上にフロアーを乗せて、十数人がかついだ。私は2人の男のかつぐ古い「駕籠」で運ばれた。(中略)彼らは労賃を断って受け取らず、われわれを運ぶことが日本のためになるならば。
(●三沢浩訳『自伝アントニン・レーモンド』 鹿島出版会刊))

只見川ダム現地調査

パシフィック コンサルタンツ インコーポレーテッド設立

只見川開発のプロジェクトに取り組んでいる間に、エリック・フロアと「火曜会」のメンバーとの間には、深い相互理解が生まれました。「日本のエンジニアは優秀である。是非一緒にコンサルタントをやろうじゃないか。近い将来、必ず日本及び東洋でコンサルティング・エンジニアを必要とする状況が出てくるはずだ。そのときに、アメリカ流のコンサルティングができるということは、素晴らしいことだと思う」フロアは、白石宗城や平山復二郎に訴えました。
一方、「火曜会」のメンバー、とくに平山復二郎は、かねてよりコンサルティング・エンジニアについて造詣が深く、日本の技術及び、日本そのものを発展させるためには、欧米流のコンサルティング・エンジニア・システムの導入こそ急務であると主唱していたこともあり、この申し出は願ってもないチャンスでした。
1951年9月、米国法人パシフィック コンサルタンツ インコーポレーテッドが発足しました。現在のパシフィック コンサルタンツ株式会社の前身が誕生したのです。パシフィック コンサルタンツ インコーポレーテッドは、アメリカのデラウェア州ケント郡ドウバー市サウスステートストリート129番地に本社を設けました。資本金は3,000ドル。白石宗城とエリック・フロア、それにアントニン・レーモンドの平等出資によるアメリカ資本の会社です。

(●『パシフィック コンサルタンツ25年史』 パシフィック コンサルタンツ株式会社刊)

パシフィック コンサルタンツ インコーポレーテッド設立

A.レーモンド プロフィール

  • ボヘミアのクラドノで生まれる

  • プラーグ工科大学卒業

  • ニューヨークのカス・ギルバート事務所勤務

  • F・L・ライトに師事、タリアセンで働く

  • ライトとともに来日し、帝国ホテル建設に従事

  • 東京事務所閉鎖

  • 奥只見川の視察調査

  • 麻布に株式会社レーモンド建築事務所設立

  • リーダーズ・ダイジェスト社東京支社で日本建築学会作品賞

  • 勲三等旭日中綬章受賞

  • ペンシルバニア州ニューホープで死去

※●三沢浩『アントニン・レーモンドの建築』
鹿島出版会刊より作成